Velvet Memories

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捨て続ける

今日の日記は遺品整理に関するダウナーな話題です。グロとかそういうのではありませんが、苦手な方はご注意ください。

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ここのところしばらく、大量のごみを捨て続けている。

祖母は文芸と芸術に人生をほぼ全振りし、二世帯住宅で割り当てられた1DKのスペースに何十年分のすべてを堆積させて去っていった。

食品や日用品からスタートした時はまだ良かった。乱雑に置かれたそれらは、おそらく祖母にとってもそこまで思い入れがないものだったと推察できるからだ。

しかし片付けが進み、キッチンエリアのジャングルを脱した先で私を待ち受けていたのは、衣類、展覧会の半券、絵葉書、画材、用紙、大量のスケッチ、作品、習作、同好の士による額装済みの作品、10年分のカレンダー、資料用にコピーしたのかあるいはただ気に入っただけなのかわからない写真、新聞の切り抜き、友人との私信、2、3ページだけ使ってあとは何も書いていないノートの群れ、備忘録的なメモ帳、端切れ、送信済みのFAX、大昔の着物、未使用の折り紙、使用済み包装紙コレクション、ゆがんだ書棚、そして大量の本(あと、痛みきった畳)だった。

いわば祖母の「好き」の残渣。

はっきり言って経済的価値は0に等しい(というか処分代を考えたらマイナスだ)ものの、そこにあるのはどれも「好き」で、たとえ私達他人には理解不能だったとしても祖母は何かしらの「良さ」を見出していたモノたちではある。

そして、その圧倒的な物量の「好き」を、軍手を嵌めた私たちはどんどんビニール袋に押し込んでいく。

もちろん、感傷に浸っている場合ではないことはわかっている。

家賃こそ発生しないとしても、確実に湿度と熱気の季節は近づいているし、私達生者も潤沢なスペースで生活しているわけではないので、このまま放置はしておけない。

所詮モノはモノであって、それらに直接思い出が宿ることはないし、思い出の依代にはなったとしても主の祖母はもういない。

このモノたちは祖母の「好き」でいるという役目を終えたのだから、ここにある理由が無い。

それでも、「好き」を集めること、手元におくことの儚さの前に、すこしだけ片づけにかかる手と、それ以上に自分の「好き」に伸ばす手が鈍っているのを感じる。